2012年1月22日日曜日

整理棚(ヤコブの梯子)の発見

ずっと使わずにしまってあった整理棚を引っ張り出し、取説を読んでいます。
と、いうような感じです。
感覚、感情、精神、霊性、神性にある整理棚という意味です。

Let's Glow Our Tree Of Life
私たちの生命の木を育てよう

オーラソーマレベル3で、初めて知った生命の木の教え。
正確にはここで整理棚(ヤコブの梯子)の発見をします。
初めて見聞きするものばかりで、誰もが陥りがちな「難解そう」な印象を払拭するために、
特別講座なども受けてみたけれど、日常使い可能なほど世の中に浸透しきれていないため、シェアリングもないまま数年放置で現在に至っていたので、ご想像どおりのありさまでした。
文字通り、いったん棚上げ状態。
それをもう一回、使おうと試みるためのコースでした。

はっきり言って、私は最近の若者言葉の「神だ!」
という言葉が、大嫌いです。

神なんていないし、いるとすればいったいどこにいるの?何をしてるの?
苦しい時に神に祈ったって、何もしてくれないじゃない?
神も仏もないんだから、この世は人がやりたい放題。
誰か、救ってほしい。
という、形だけの「偶像崇拝」に陥る手前の言葉に聞こえます。

亡くなった姉は、中学生の頃から、誰にも教わったわけでもないのに、聖書を読んでいました。
無宗教の環境で、今思えば、病魔と闘うための、知恵だったのかもしれません。
新約聖書と、旧約聖書を両方読み、旧約聖書はすごいと言って、ところどころ、私に好きなところを教えてくれていました。
もちろん、当時小学生だった私が、覚えても理解してもいないんですが、
こうして今、生命の木に触れているということは、
あれが初めての整理棚との対面だったかもしれません。

少なくとも、姉は偶像崇拝に頼らず、モーゼの教えを胸に旅立っていったわけです。
両親は姉の遺志を感じとって、
亡くなった後訪ねた寺の住職に、相談をしました。
今でも、あの頃の住職の言葉を思い出すと涙がこぼれてくるのですが、
早くに姉を失くしてしまった罪の意識に対し、
「亡くなった人というのは、魂だけになってから、恨みつらみの心は亡くなり、
今は一緒に暮らしていた家族へ思いやりの心しか残ってないんです。」
そして、戒名はつけないということにも快諾。

今にして思えば、姉はヤコブの梯子を上って行ったということなのでしょう。
マルクトからイエソド、中道の柱からティファレントをとおり、一気にゲブラー、ケセド。
ケセド(慈悲)から、遺された家族へ光を送ってくれました。
そしてさらにビナー、コクマーをとおってケテル。神のもとへ。

このコース受講の前に、
年賀状用にとウィリアム・ブレイクの詩を書いたことも、偶然ですが生命の木の理解を促進するものでした。
http://isetorathethird.blogspot.com/2012/01/divine-image.html
神性は人の心の中にある。
はっきり言えば「自分は神であり、私たち一人一人は神でありうる。」

さて、この言葉をどう受け取るか。
私が「神だ!」とツイートする若者が嫌いなように
この言葉を嫌う人、いるのでしょうけれど。

続く。



2 件のコメント:

  1. 旧約聖書、むかしちょっとだけ読んだことあるけど、あれはけっこう人間くさい感じがして面白かった記憶があります。

    たしかに最近、神がずいぶん大安売りされてるようですねw ネ申(ねしん)とか言われたりもして、、、 じぶんはまったく無宗教ですが、なんというか、神をあまりに神聖化しちゃうのがよくないような気もしています。むかしは大嫌いだったけど、さいきんは、ほんと、泥臭い人間性がおもしろいし、その人間性の中にこそきっと「何か」が宿っているんだろうな、なんて思ったりもします。

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  2. 猫旦那さん

    へ~。旧約聖書読んだことあるんですか。読書家!
    無宗教ですが、日本古来の八百万の神のような考えは好きです。(でも、「トイレの神様」つう歌は勘弁ならん。笑)あと、寅さんが言う「お天道様が見てるってえもんだよ。さくら。」とかも。
    生命の木はカバラにあり、ユダヤの教えでもともと父親が男兄弟にしか教えてはいけないという、厳しい規律があったものだそうです。
    欧州は抑圧の歴史ですよね~。日本は民俗化してるし無宗教が浸透してて、まあそれも良し悪しってとこなのでしょうね。

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