2011年3月13日日曜日

2011.3.11.15:00


平日のオフタイムを活用したスケジュールでした。

この日は娘の卒業式で、午前中は中学校の体育館に。
せっかくの記念日だけど、感慨にひたる感覚よりも、分刻みのスケジュールがこなせるかどうかに神経を使うほうの感覚が強く、式終了とともに会場を出て、入学手続きのために銀行窓口へと向かうなどしつつ、急いで駅に向かっていました。

今思えば、この焦りはなんだったの?ということになるのでしょうが。
でも、本当に平日の昼間はタバコ屋のおばちゃん状態で、外出がままならないためか、かなり必死ではありました。

渋谷から乗ってきて、隣に座った若い女性は、毛布にくるまれた小さな赤ちゃんを抱いていて、たぶん生後2カ月くらいで、たぶん女の子で、おそらくまだあまり視力もないと思うのだけど、つぶらで澄んだ瞳を、瞬きもせず、ずーっと斜め上の方向から視線をそらさずにいる、その表情がとても神々しくて、小さな姿とのギャップが可愛くて、つい話しかけてしまいました。女性は、今日がこの子との初めての外出なんです。と言っていました。同じくらいの子がいる、友人を訪ねるところなんだそうで、赤ちゃん連れだった過去の自分の姿も思い出しつつ、私は用賀で降りたのでした。それが、14:25。

目的地は徒歩8分ということで、地図で方向を確認した後は、ほぼ迷わずマンションのエントランス。エレベーターホールを探すのに少し戸惑いながらも、5階までエレベーターに乗り、待ち合わせの15:00から、15分早い到着。無事に辿り着き、暖かい笑顔に迎えられて、ほっとした瞬間でした。

地震はご周知のとおり、14:46に発生。

クリスタル・ヒーリングの個人セッションのために、やってきた場所で起こった地震でした。
由比ガ浜でいつもクリスタルのコースをレクチャーしてくださる、マリア先生(以下、マリアさん)のセッションルームに着いた途端の出来事でもありました。

本来なら、セッションに費やすはずのひとときは、とめどなくやってくる大きな揺れに翻弄されながら、家族とつながる努力と、TVで中継される現実を直視するための時間に使われていきました。

非日常に重なる非日常で、ぼんやりしてはいけないのに、少し頭がぼんやりしていたかもしれません。どうしてここにいるんだろう。と、その意味を考えたりもしました。

非常事態にも関わらず、マリアさんのホスピタリティを存分に味わった時間でもありました。

この日の夕暮の写真を何枚か。不思議な空の色を撮ろうとして、沈む太陽がどんどん表情を変えていった瞬間でもあります。太陽をぐるりと囲む、二重の虹を捉えようとしたのですが、うまく写すことができませんでした。普段は富士山の見える窓辺なのだそうです。


日没後は、一晩マリアさん宅でお世話になることに。ハートウオーミングなホスピタリティは、翌朝6:00にマンションを出る、その瞬間まで続くのでした。考えようによっては、自分はなんて恵まれたクライアントなのかと思います。

気が動転する中で聞いた言葉で、正確な伝達かどうか自信がないけど、
「クリスタルに関わるということは、地球全体をヒーリングすることに関わるということ」
という言葉が、この状況の中で、身体の芯に響き、
ああ、自分はこうした役割を担う者として、目覚めていく必要があるんだな。もう、気づかないふりができないほどに、地球が傷ついてる現実を、このセッションルームにいるからこそ、強く感じるのであって、だからこそこうして、マリアさんの傍らにいて、その瞬間に発生する啓示を受ける必要があったのだ。

と、感じざるを得ないのでした。
太陽の回りを囲むように現れた虹と、見る見るうちに姿を変えていくその太陽は、神々しいという言葉すら越えて、かつて太古の人々が、神の背後に見た、大きな愛の光のように見えて、大地にできてしまった惨い傷を癒やすために降り注いでいる光にも見えたのでした。
実際、思ったよりもずっと早いペースで、欲しかった自分の空間を手に入れる計画も進んでいて、それゆえ、今まで底に沈んでいた、いくつもの課題が浮かび上がって、深く傷ついたりする日々がずっと続いていたのが、さらに希望を持って進んでいくための動機づけを与えられた瞬間でもあるのかもしれないと。


個は全体とつながることを深く学ぶ瞬間でもありました。



そして、こうした瞬間にも、新しい命が生まれ、無垢な魂はたとえどんなに大地が荒れ果てていようと、その命を燃やすだけ。

地震直前に出会った赤ちゃんからは、それを教わったのでした。



出発の遅れがありながらも6:30頃の用賀発に乗り、仕事場に定時10分前に着くことができたのも、不思議なくらい順調でした。

その間、パニック寸前の車内にも遭遇しました。終点で降りるので空いた席に座ると、次の駅で降りたいからと、混みあう中、必死に立っていた女性の膝が自分の膝に当たり、その膝は恐怖でがくがくと震えていました。女性が降りると今度は3.4歳の女の子がそばに来たので、少し隣の人に詰めてもらい、自分の隣に座らせました。



混みあう中でじっとしていたその子が、暑くて小さな手をうちわのように動かすので、コンビニで買い置きした、ペットボトルの水を抱えさせてあげると、気持よさそうに顔に当てたり、もてあそんだりしていて、私もこの子のおかげで、勇気づけられるなと感じたり。

災害だからだめだと決めつけてるのは、地球上でほんの一握りの、一部の人間の大人たちで、大多数である他の生命体はわき目もふらず、必死に与えられた時を生き、瞬間の命の炎を燃やすだけ。

偶然の積み重ねのおかげで、制限のない日常があることに感謝しつつ、被災に遭われた方々が、一日も早く、それぞれの安堵感に包まれることを心から願います。








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